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2005.04.11

364:050410 舞台と教壇

昨日は快晴。絶好のお花見日和。成蹊大学の桜は花吹雪となり、土の上に積もっています。桜の絨毯、きれいです。

友人の子どもたちが通う小学校の新校舎が完成し内覧会が開かれていました。偶然近くにいたshioも誘われてのぞいてみました。きれい。きれい。きれい。とくにホールがすばらしい。何がすばらしいか? 「舞台」がないんです。演じたり演奏したりする場所は周りより高くも低くもないのです。そしてそこから客席側が階段状に徐々に高くなっています。この設計、スバラシイと思いました。

前に立って何かパフォーマンスをする子どもたちは、舞台が「高い」というだけで緊張します。フラットな床面であれば、そのような不必要な緊張を避けることができます。観客からの見やすさは客席を相対的に高くすることで確保すれば十分。舞台が舞「台」である必要はありません。フラットな方がいい。

いつも様々なところで講義や講演をしながら思います。
教壇はいらない。
361:050405 学問のよろこび279:050113 「教育」とは「共育」です。などに書いたように、教師と学生とは対等です。だから、同じ平面に立って講義したい。教壇という「高み」から「高邁」な「教え」を「授ける」のではありません。教師は学生たちが学問の扉を開くために「問いなおす」べき「学」を提供しているのです。だから言うなれば教師はまな板の鯉。学生たちの批判に自らをさらす職業です(professorのprofessとは、自分の考えを公言するという意味)。だから、同等か、むしろ学生たちの方が高みから教師を見下ろす位置に座るべきです。擂り鉢状の教室の中心、一番低いところで講義すべきです。教師の方が高いというのはおかしい。

大人が子どもと対話するとき、大人がしゃがんで目の高さを子どもと同じくします。shioもキャンプでも近所の子どもでも、話をするときは必ずしゃがみます。幼児教育の現場では常識です。20歳前後の学生と教師の関係においても全く同じことがいえると思います。精神的な位置関係を同等にするべきなのです。それによって初めて「対話」が生まれます。そのためには実際の位置関係も同レベルにするのが出発点です。

shioは教壇のある教室で講義をするとき、できるだけ教壇から下りて、学生たちと同じ高さに立って話をするようにします。もちろん黒板が教壇の後ろにある以上、教壇に乗ってしゃべる時間は相当ありますが、基本的にはそれはしたくない。同じ高さで「対話」したいのです。昨今、講義の「双方向化」が叫ばれ、「一方通行」の講義が問題とされます。それに伴って「双方向な講義」が徐々に増えているらしいですが、はたして本当に双方向か。つまり、精神的に双方向になっているか。いくつかの大学で「双方向」とされている講義を受けている学生等から講義の実態を聞く機会がありますが、あまり上手く行っていない印象もあります。学生を当てればいいというものではありません。当てた学生の発言に対するその教師の対応が大切です。カタチだけ双方向にしても、実質的な双方向性にはなりません。逆に、精神的に双方向であれば、たとえ実際の講義がほとんど一方通行であっても、「双方向な講義」といい得るのではないかと思います。それは精神的な対等性が基本です。

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